"「私」を知る " とは。

ー「私」を思い出すということ 

 

ー ここは、正解じゃない、正直になっていい場所 ー

 

 

 

 

わたしは、あなたが“自分のほんとうの声”に耳を澄ませるためのガイド


「答え」はあなたの中にある。

わたしが「答え」を持っているのではなく。

 

 

 

その声が、たとえ――

揺れていても、迷っていても、

ガサガサしていても、だいじょうぶ。

 

 

ここは、正解じゃない、正直になっていい場所。

 

 

あなたの胸のうちにある、

まだ名前のない、“想い”という顔をした 

ほんとうの気持ちに、

そっと耳を傾ける場所。

 


わたしは、そこにいて、

あなたの声に耳を澄ましながら、
あなたの「ほんとう」へのガイド役に、徹するから。

 

 

 

 

ここに導かれてくれたあなたに、心から“ありがとう”をお伝えしたい。

 

こんなにもニッチで、無名の私のウェブページを見つけてくださったあなたは、きっと、とてつもなく感度の高い方だと思うのです。

 

 

 

・        ・       ・ 

 

 

 

はじめまして。

Lucy Orie(ルーシー織絵)です。

 

 

本名、大辻織絵と申します。

 

以前は、ペンネームやニックネームを名乗ることに抵抗がありました。

「親からもらった名前以外を名乗るなんて罰当たりや」と思っていたからです。

 

でも、2020年の春。

あるとき突然、「ルーシー」という名前が降ってきました。
ただの思いつきじゃないな・・
すごく私らしさ、を感じました。

 

それからは、新たに出会った方々に「ルーシー」または「ルー」と名乗り、呼んでいただいています。

ほんとうに嬉しい雰囲気が漂うのです。

 

 

 

 

 

 

「調律の時間。」へようこそ

 

 

このページには、

「“私”を知る。」という入口から来てくださった方も、

「調律の時間。」という紙のご案内から来てくださった方もいるかもしれません。

 

わたしはピアノの調律師ではありません。

でも、あなたという“楽器”が本来の音で響くための、小さなお手伝いができます。

 

人間と楽器は、案外よく似ています。

「調律」は楽器の演奏にとても大切な準備の一つです。

 

 

例えば、弦楽器で言うと・・・

一つの楽器には、いくつかの弦が張ってあります。

弦の調律することで、弦と弦の音同士が調和し、その楽器が奏でる和音が心地よく響きます。
そして、楽器同士で合奏をするとき、

調律することによって、楽器同士が奏でる音同士が心地よい和音、シンフォニーが響きます。

 


弦と弦=自分と自分。
楽器と楽器=人と人。

自分と自分の調和。

自分と世界の調和。

 

…それ次第で、この世界の生きやすさはさまざまに違いそう、ですよね。

 

 

 

 

 

「“私”を思い出すという調律」――。

 

それを、体・服・花という”入口”を通して、思い出していきます。

 

 

大きな変化を起こさなければ、という気負いは要りません。

ほんのちょっとした気づきや変化が、まるで小さな水滴が自然に大きな水たまりになるように、

いつしか深い調律へと、おのずからつながっていくのです。

 

 

 

 

この「調律の時間。」は、私のこれまでの人生の中で、

自分自身を深く見つめ、整え、解きほぐしてきた長い時間の蓄積から生まれたエッセンスです。

 

 

 

では・・・

 

ちょっと長くなりますが、自己紹介もかねて、その背景をお話しさせてください。

 

 

 

 

 

幼少期のわたし

 〜 抑えられ、引きずられた身体と感情 〜

 

 

3歳の頃、肺炎にかかりました。

もともと、母も身体が弱かったようです。

その影響もあったのかなと思います、母の大好きなクラシックバレエのレッスンにいくようになりました。

母は、レッスンのたび、嫌がる私をひきづってレッスンに連れて行きました。

そのことは私の体を少しづつ、丈夫にしたことは間違いないことだったのですが・・

 

 

小学1年生になりたての頃、

私の50年余の人生に深く影響したある出来事が起きました。

 

そのことはまたいつかお話ししたいと思っていますが、

「三つ子の魂、百まで」という言い伝えや、

カウンセリング等で必ず言われる「その心の問題の根っこは幼少期にある」

といわれるように、

自分の心を25年以上も掘り下げてきてたなかでやっと発掘した、苦悩や葛藤、迷妄の源泉がそこにありました。

 

それにたどり着いたのは、56歳になってしばらくの、ほんのこの間のことでした。 

 

 

 

その後、中学に上がり、14歳になった頃、母が倒れ、寝たきり同然に。

家庭環境が一変したのだと思います。

産婦人科医院というちょっと特殊な家庭環境、小学1年生のその出来事が合間って、

私は思春期らしい反抗を全く経験しませんでした。

いろいろな想いや感情を心の奥底に押し込めていたことはなんとなし感じていたとは思い出されるのですが、反抗期をやっていなかったことに気づいたのも、30代になってから。

 

そんな風に気づいていようといなかろうと、素直な自分を表現しないで抑え続ける事そのものが人間にとっては不自然なこと。


どこかでいつも自分を否定していて、いつも自分の行動言動を見張っていた・・

そんなことを続けなくてはならないならば、いっそのこと、

全部ないものとしてしまえば楽になれるかも・・

 

素直な気持ちを表現することをやめたばかりか、感じ方すらわからなくなっていきました。

 

 

10代後半は、心の葛藤と抑圧ばかりが強まっていき、

自分の体や顔のパーツ、皮膚の色を日々否定し続けていました。

10代ならば、ピンクがかっていてもいいはずのほっぺも全く色がなく、

青白く、土気色の顔色がすごく嫌だった・・

 

 

18歳の頃、住み慣れた家から父が欲しいという家に引っ越すことになりました。

2階の半分くらいのスペースを自分の部屋にしたらいいと言ってもらって、

そこも改装をしてもらったのですが、

その部屋を通った先に、父の書斎が作られた。

そんなレイアウトはおかしいですが、そうなってしまっていた。

自分には、何にも見えてなかったんだと思います。

出来てみれば過ごしづらいその部屋ではなく、隣の一部屋に閉じこもるようになりました。

その部屋は、数年前発病した母が、また同じ発作でもっと状態が悪くなり、

使わなくなった部屋でした、

  

 

 

 

 

実家を逃げ出しても、心の抑圧は消えなかったー

 

 

父とも母とも、心を通わせられず、その一室に閉じこもって実家に居場所がないように感じていた私は、 実家から出る事ばかりを夢想していました。

大学進学を機に、あれやこれやと理由をつけて、一人暮らしを始めました。

一人になってしばらくは幸せいっぱい!

でも、それはあくまでも表面的なもの。
実際、心の葛藤と自分自身の抑圧は強まっていく一方でした。

 

 

就職では、実家に戻らず、音楽の興行関係の道に進もうとしましたが、父から強く反対され、

逆らいきる力もなく、泣く泣く実家へ戻り、家業を手伝うことに。

 

母がほとんど寝たきりだったこともあり、

父から「ママがあんな状態なのに、実家に帰ってこないなんて、世間の人たちはどう思うか!」と何度も言われ、私自身も心のどこかで「こんな状態で実家に帰らないのは人でなし。親元に戻るのが本筋。でも、戻りたくない・・」そんな葛藤を抱えていました。

 

どこにいても、親がそばにいてもいなくても、私の心は親の顔色をいつも恐る恐るうかがっていて、電話の音が鳴るたび、ビクッ!としていました。
とった電話から聞こえる父の声のイメージは、いつも不機嫌で、怒っていました。

また叱られるのか、詰られるのか、今度は何を批判され、否定されるのか、と戦々恐々としていました。

希望通り、身体は実家から離れても、実際のところは変わらなかった・・

親の“望まない私”が表に出ないように息を殺していました。 

 

 

 

 

 

ずっと、自分を疑うばかりの人生 ー

 

 

実家に戻ってから、いろんなことに挑戦してきました。

自分だって胸を張って私自身として生きていたい・・そんな想いで仕事に活路を求めました。

 

調理師、音楽活動、ボイストレーナー、ゴスペル歌手、書の表現、コーラスアレンジャー、作詞作曲、父の秘書、紙媒体のデザイン……

 

でも、ずっとどこかにあったのは

「決め手に欠ける」「何かが足りない」という感覚。

 

今思えば――

わたしの根っこには、「自分を絶対に認められない」「認めない」という前提があったのだと思います。

「親が認めてくれない限り、何をしても意味がない」と、信じ込んでいたのだと思うのです。

 

 

父が、私を信頼して、認めてくれることだけを心の奥底で強く強く求めていた‥

このまま状態では永遠に得られないものを手に入れようと必死でもがいていたんだなと思います。

 

 

 

 

 

 

体・服・花を通して、自分の内側 ー

 

つまりは、ファザコンだったんでしょうね。

 

父を通して、いつも自分を見ているようなもの。

父に喜んでもらわない限り、自分を肯定できないという思考回路を築いてしまっていました。

 

 

自分を否定し、何かをしても、何も出来ていない、と感じてしまう私にとって、

「外の世界」は、どこまで行っても「私なんかには太刀打ちできない」ものでした。

がんばったとしても、がんばったと自分から認めることができませんでした。

  

 

「外の世界」に太刀打ちできない私は、外の世界がダメなら、自分自身の体や心なら、何かアプローチできるかもしれない!

 

自分の心に問いかけ、自分が変わることで、私の人生を、私の目に見える世界を変えることができる可能性があるんだ、とある本で知り、小さな希望の光が見えたような気がしました。

 

 

これが、活路になるのかもしれない・・

心のメソッドや自己啓発、潜在意識の書き換えに取り組みんできました。

 呼吸や人間の感覚や感性についても研究してきました。

自己否定が激しかったからこその方向性だったと思います。

 

 

 

コロナ禍には、花作家・森直子さんとのご縁から、

花を通じて、自分と向き合う体験を重ねる経験をしました。
「命の尊さではなく、命のあり方に向き合う」という彼女の考え方に心から賛同しました。

 

散々自分否定を続けてきた私にとって、

いい悪い、尊い尊くない、というような世界観には疲れ切っていたからだと思います。

 

同じ頃、パーソナルスタイリングの草分けで第一人者である、政近準子さんとご縁をいただきました。
彼女の「マインドフルファッション」「ギフトファッション」という考え方にも目を開かれました。「服」という切り口から自分を知るきっかけをいただきました。

 

これらの経験を経て、気づいたことがあります。

 

 

「わたしの目は、ずっと“外”ばかりに向いていた。
自分の感性を信じ切れなかったのはそうだからだったんだ‥

 

 

繊細な感性や、唯一無二の個性を持っていたとしても、

周囲や親の望むありかたばかりを気にして、
自分らしさを抑えなくちゃ、外の世界の認めるようになれなくちゃ、肩肘はって頑張ってしまっていた・・

「内側の自分」を知り、見つめることを、ずっと避けてきた。

 


外側に答えが、正解が、いちばん欲しいものがあるはずと思い込んで、
自分の大切なものを開け渡したり、
相手が欲しそうなものを与え尽くそうとしたり、

そうすれば、その犠牲の引き換えにそれを得られるに違いない・・
その考え方が、自分自身を見えなくしていた。

 

 

 


ジブリ作品の「千と千尋の神隠し」に出てくる"カオナシ"というキャラクター。

思い浮かべられますか?


あれは、私、でした。

 


ーーそう気づいたとき、

今まで感じなかった、感じとろうともしなかった、

カオナシの深い絶望と悲しみが「自分事」として迫ってきました。

 

 

ああ、これは、私のなかにあった悲しみと絶望とすごく似ている・・

 

 

 

 

 

「変わりたい」から、「思い出したい」に ー

 

 

「本当の自分を思い出す」ーーこういった類の考え方は、自己啓発でも散々見聞きしてきたものです。

でも、そう聞くたびに「こんな自分じゃダメだ」と思いました。

だから、早く変わろう、早く変わらなきゃ、と躍起でした。


思い出す、という言葉は知っていても、どういうことかまったくわかっていなかった

 

 

 

今、ようやく――

初めて、「変わらなきゃ」ではなく、

『思い出せばいいだけ』なんだと知ったのだと思います。

 

「変わらなきゃ」ではなく、

『私自身を真っ直ぐに見ればよかっただけ』なんだと。

 

 



いちばん長い時間を共に過ごし、いちばん長い時間まったく気づかずにいた、でも、紛れもない「リアルな私自身」。

 

それは、深い絶望と悲しみ、その奥に隠されてきた怒り、

それを心の奥底に抱えて、知らない振りを決め込んだ自分。

 

あんなに自分を掘り下げてきたはずなのに、自分を見れていなかった。

 

 

あの小学1年生のあの出来事で目の当たりした「それら」をあの時の幼い私は受け止めきれなかった。

幼い私には、それは恐ろしく、悍ましく、痛々しく、重過ぎて、受け止めきれなかっただけなんだ。

だって、幼かったもの…

 

 

あの時置き去りにした自分は、まさに「私の片割れ」。

 

 

 

置き去りにし、忘れ去り、亡き者としてきた自分自身との再会を、ようやく果たしたんだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

「調律の時間。」は、あなたがあなたに出会い直す時間 ー

 

 

これまでの私の経験は、すべて「ここ」に繋がっていたように思います。

 

「自分を自分で見つめ、おのずから立ち上がってくる真実『自分自身』ほど強いものはない」

 

 

外に正解や答えを求めるのではなく、

すでに自分の中にある、ほんものの「声」や「音」を見つけていくこと。

 

それが、「調律の時間。」の本質です。

 

 

 

 

・        ・       ・  

 

 

 

 

自分のことを、いちばんよく知っているのは、自分自身。

 

外に探しにいくのでもなく、

外から力を加えて、変えようとするものでもありません。

 

 

ここでお伝えした私の道程は、私にとっての真実。

あなたの人生も、あなたのこれからも道のりも、あなたにとっての真実。

 

私は、あなたが行く道を示したいのではなく、

一つの可能性として、私の歩んできた一例をお伝えしたかった。

 

 

 

 

 

あなたが歩くその道にも、あなた自身の調和の響きが、きっと息づいているはずです。

 

 

もともとあなたが持って生まれた調和を、そっと“思い出す”時間。

それが、この「調律の時間。」です。

 

 

 

 

 

「調律の時間。」

  ─ あなたという愛おしい存在に、静かに耳を澄ます時間。

 

体、服、花、三つの題材からひとつ選んでいただき、自分自身の本当の声を浮かび上がらせていくことで、変化や脱皮のきっかけにしていただければ嬉しいです。

 

例えていうなら・・

‥体を題材とすれば、

  声や感情の詰まりから、自分が浮かびあがり、

 

‥服(スタイル)を題材とすれば、

  その人が無意識に選び取っている“自画像”が映し出され、

 

‥花を題材とすれば、

  その人が世界とどう関係しようとしているかの構図が浮かび上がる。

 

 

 

 

テーマは無理に一つに定めなくても大丈夫です。

その時いちばん自然な入り口から自分自身を見つめていきましょう。

 

 

 

🕊 お試し価格・・1時間 3,500円
   ※1回1時間とは決まっているわけではありません。

    あなたの感覚に寄り添います。

   (通常 1時間5,500円 / お試しの後、継続のご相談も可能です)

 

🏡 お会いする場所・・JR岡崎駅から徒歩6〜7分

   ( ZOOMでもお会いすることができます。) 

    ・・・その他、お会いする場所、お時間等、ご相談に乗ります。

 

 

 

 

「調律の時間。」には、たとえば、こんなことをします:

 

 

ーー 体、服、花‥ その人らしさはどこにでも現れてきます。

 

✿ 体のこわばりや呼吸の様子を観察しながら、自分の体、気持ちに問いかける

✿ その日の服を題材に、「どう見られたい/どう在りたい」が映し出されることにみずから気づく

✿ 選んだ花を感じるまま挿してみることで、世界との関わり方や、自分の“今ここ”の在り方を映してみる

 

 

 

「調律の時間。」は、「正す」ための時間ではありません。

自分自身や自分が望んでいたことを“思い出す”時間です。

少しずつ自分の輪郭が変わっていくような静かな対話の場です。

 

 

 

お申し込みは・・・

ルーシーのインスタグラムのDMよりご連絡ください。

 

 

 

 

こうしてあなたに出会えたことを、心から感謝しています。


あなたとは、この一期一会、なのかも知れない。

あなたと、いつか、この「調律の時間。」をご一緒する時が来るかも知れない。

どちらであっても、
「調律の時間。」に流れる風が
、あなたの感性にもそよぎますように、

その象徴となる絵をここに置いておきます。

 

 


「 調律 ー 私は此処に立つ。」