国登録有形文化財 「旧石原家住宅」(通称:石原邸)

11月8日土曜日開催の『夜まで文化財』ーよるぶんー
100名近い皆様のお越しを賜り、こころよりありがとうございました。

 

珈琲やお酒、おつまみなどをご用意しておりましたが、
思ってもみないことでしたが、売り切れのメニューが出るほどでした。

お迎えする側の私たちにとっても、おかげさまで、とても心躍るような一日となりました。
改めて、古民家の力と、古民家という文化を愛する皆様が多くいてくださっているのだなあと胸に沁みました。

 

※この催事は、当家独自の企画であり、毎年秋に開催されている愛知県内の登録有形文化財を一堂に公開する「あいちのたてもの博覧会」への参加企画でもあります。


この催事のご案内については、こちらでご覧いただけます。

 

 

修復工事完了のお知らせ。

2025年11月初旬、春からの修復工事が完了しました。

2回目の車両事故が主屋への正面衝突だったのですが、修復に至るまで、2年ほどの時間が経過してしまいましたので、時間が経つほど傷が深まり、歪みが強くなるのでは・・と心配しておりました。

 

車がぶつかったことで凹んでしまった部分は、外に引っ張り出すことによって歪みを直す「曳家(ひきや)」という手法をとるのですが、実際工事を始めてみたところ、事故当初、計測した歪みよりも小さくなっていたと工務店さんが教えてくださいました。

土壁や瓦、木部の損壊は時間を経るほど、傷が深まるやすいという傾向はあるのですが。

構造的には、木造古民家というのは、まるで生きているようなもの・・自ら元に戻る力があるのだなと驚きました。

 

 

修復が終わった家の姿を見て、お風呂から上がり立てというような印象を受けました。

事故によって破壊された部分は、代わりとなる新旧の木材や壁土等を使って元のすがたに戻すわけですが、完全に「元に戻る」わけではありません。似たような材料を使っても、艶や色合い、風合い、雰囲気は絶対に元には戻りません。それは、こうした古民家を愛する者にとっては、とても残念に感じることなのですが、全体を俯瞰した時、この家はリフレッシュさせてもらったのだなと感じたのでした。

 

こうした車の事故も過去、何度か経験しました。他の理由や原因で、修理や改築を繰り返し、その度にこの家は少しづつ姿を変え、リフレッシュを繰り返してきました。

石原家の人々の意思であったり、不可抗力であったり、さまざまなきっかけで直しを入れてきていることによって、165年を経て、今に至っても、健康な家であれているのだなと・・

 

この度の事故と、修復工事を経て、また改めて、目に見えない家を支える力を感じております。

 

 

 

修復工事のお知らせ。 

 

2025年5月より、2年前と4年前の車による事故によってできた主屋表側の破損を復元する工事をしています。

工期は今年11月初旬までの予定です。


毎年秋、「あいちたてもの博覧会」に参加し、建物を自由観覧していただける機会を設けています。

今年は、11月8日ということに決まりましたので、それまでに復元工事が終わればいいなと願っています。
昨年は、昼間から夜まで開けておりました。

大きく開けた開口部から差し込む陽の光の移ろい、昼と夜の古民家の風情の変化を楽しんでいただけるよう、夕方以降はお酒などのお飲み物もご用意し、とてもご好評をいただきました。
お迎えする私たちも楽しいひとときを過ごさせていただきました。

今年も、そのような機会にできたらと考えております。
開催の詳細が決まりましたら、こちらでご案内させていただきますね。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

 


未だ、この家を日常的なオープンには至っていない現状なのですが、この家をたいせつに思う想いは、時が経つほどに深くなってくるようです。

それをこの事故の時に強く感じました。

これは2年前の事故の様子で、4年前の事故に比べれば軽微なものでした。車でぶつかって来られた方に悪意はなく、すぐに対応いただき、誰の命にも別状はなかったのですが、ただ無理な運転をされた結果、こういうことになりました。

 

その時、わたしは、この状態を見ているほどに、オロオロする当事者の方やご家族の方を見ているほどに、沸々と強いやるせなさが湧いてきてしまいました。自分でも信じられなかったのですが、涙がぼろぼろ出てきてしまいました。その涙の意味もわからないまま、事故を起こされた方に、とうとうと本当に安全に運転をしてください、車に乗るということの意味を今一度よくよく考えてください、と今までにないような強めの口調でお伝えしていました。


わたしも若い頃、事故を起こしたことがあります。
今思うと、本当に若い頃の自分は、徹頭徹尾、浅はかだったなと思います。
そんな自分の過去を思い出しながら、そんな自分を棚に上げて、目の前のその方に必死で語りかけていました。

その方もお怪我はなく、通りすがりの人に怪我があったということもなく、不幸中の幸いだったのですが、
一度壊れてしまったら、修理修復はできても、全く同じにはならない、ことが脳裏に上がってきて、なんとも言えない気持ちになりました。

一部にそれなりの衝撃が加わると、家全体が歪むので、この度の工事は「曳屋」という手法を使い、押し込む力がかかったところから外側に引っ張ることで、できた歪みを直します。ただ、全く同じようには戻ることはありません。
例えば、畳の部分は、空間が仕上がったところに畳屋さんがおいでになり、寸法を測って、ギチギチぴったりになるように畳みを仕立て、はめ込むことで隙間ができないようにします。曳屋をすることになったので、元の畳をそのまま戻すことができず、新たに仕立てる必要が出てきました。
特に歪みのひどかった部屋の畳を新しく変えることになるのですが、そうすると、全体を開け放って使う作りでもある当家の場合、ここは古い畳のまま、ここは新しくした畳、というふうにすると、歯抜けのような感じになってしまいます。そのため、全ての畳を替えることになりました。

新しくなるのは、普通は、かえってありがたい不幸中の幸い・・なのですが、170年経った材が織りなす雰囲気に現状の時を経た畳がしっくりと落ち着きをもって調和していました。

もちろん、いつかは畳を新しくするタイミングは訪れるのですが、今ではないと思っていました。

でも、これは、恨み言を書き散らかしているのではなく、このことも、古いものを維持するばかりが脳ではなく、新たにするところは思いきって新たにしていくことも、こうした歴史のある建物ほど忘れてはならないことだと思っています。
事故のおかげで、あの落ち着いた雰囲気への執着を断ち切れたのだなと思っています。

そうやって、古い建物というのは、長い時間を日々日々変化しながら、今にその姿をもたらしているのだなあと、所有者の自分が改めて、視点を新たにしました。

 

母の生家であり、父も心にかけてきた幕末築の古民家「旧石原家住宅」(通称:石原邸)。

この家で生まれた母より、2004年に私が引き継ぐことになりました。

平素は公開しておりません。年一回の愛知県をあげての国登録有形文化財特別公開日(毎秋開催)に独自企画の催事を催し、広く一般のお客様にご観覧いただいております。それ以外には、場合によっては、ご縁がありましたら、催事場などとしてお貸しすることもあります。

 

この家について、私が一番大切にしたいことは、この家を預かりしている私達夫婦がこの世を去った後にも、文化的歴史的な意味のある建物として健康な形で残るように努め、必要な方々に喜んで使っていただけるように、ということです。このような江戸時代さながらの古民家が100年後も健康であり、人々に親しまれている未来を展望しながら...

 

 

160歳を前にして、なお、健在なる家。

「旧石原家住宅」(通称 石原邸)は、幕末期の安政6年(1859年)、当時の当主である石原東十郎によって建てられました。当時はこの辺りの庄屋であり、金融業も営む、薪や炭、米穀を扱う商家でした。京都の公家衆との親交があり、東十郎は商人でありながらも、蔵人という武士の位を頂き、尊王派と親交を持ち、志士達を援助したりかくまったこともあったと言われています。また、商家でしたが、家の作りには農家の方式が採用されているのが珍しいとされています。

東十郎の後、石原家には代々女子しか生まれず、跡継ぎの男の子は養子をもらっていました。東十郎のあと、宗一郎、耕七郎と続き、昭和の時代には、耕七郎の娘の一人である長女の石原愛子が近隣の学校の音楽教師も務めながらこの家でピアノを教えて生計を立てました。庄屋の名残と思われる借家も何軒か営んでいました。生涯独身を通した愛子亡き後、昭和50年頃から、嫁いだ姪の安子と夫の吉村正がこの家を継承し、昭和風に改装されていたこの家を創建当時の状態に復元。その際に発見された石原家の料理のレシピ本から江戸時代のハレの日の料理を復元し、それを供する古料理店を営みました。古料理店の閉店後は茶会や催しに使われ、一時は民芸店やカフェであったこともありました。

安子亡き後、夫の正と娘の織絵が継承し、心ある人びとの尽力により、平成23年(2011年)、文化庁により主屋、土蔵、庭門が国登録有形文化財に登録。平成25年(2013年)には、岡崎市の景観重要建造物にも指定されました。平成26年(2014年)、主屋の瓦屋根を160年振りに葺替え、みなさまのご協力により、徐々に修復を進めています。

 

近年の修復の歩み。

昭和55年頃、昭和風に改築されていた部分を取り外し、創建当時のような姿に復元しました。

平成27年〜28年にかけて、主屋と庭門を修復しました。

平成28年〜29年にかけては、土蔵外壁の修復、屋根の葺き替えを行いました。

平成28年頃から、主屋屋根葺き替えで出た土と瓦を活用し、門の前あたり瓦土塀を設え、門前の佇まいを整えました。

平成30年11月から主屋と主屋周りの犬走りの土間修復を始め、平成31年2月末に修復終了しました。

 

三つの大きな戦災、災害を乗り越えてきた古民家。

父から、中庭に面する板戸に残る黒い点々を見せられながら、これは焼夷弾のあとなんだと聞かされました。第2次大戦中、岡崎も空襲に見舞われ、旧市街地が瓦礫と化してしまいましたが、その時の火災を免れたのだと聞かされました。父は石原家が面する西側の道路の向こうまで火の手がきた、風向きが変わって助かったんだと臨場感たっぷりに話してくれておりましたが、経験したのは母や、父母を引き合わせた大叔母のはず。しかし、父は石原邸をいたく気に入っておりましたので、その真偽はさておき・・

石原家が登録文化財に登録された頃、二軒お隣のお宅の中庭に入らせていただいたことがありました。その時、ご主人から、西隣りの家が燃えていて、いよいよ火の手が移ってきそうだというところで風向きが変わったのだと。あそこに焦げ跡があるでしょうと屋根瓦を指差して教えてくださいました。私はてっきり、父から聞いた、石原家のすぐ隣まで火の手がきたのだと信じこんでいたのですが、よく考えれば、そちらのお宅もかなりの古民家。その時に燃えていたら、あのような佇まいでは残っていないはずです。

戦災時の混乱たるや想像を絶するものがあったでしょう。厳密にここまで燃えた燃えないという線を簡単には引けないものでしょうし、修羅場を生き残った安堵感なども想像以上のものがあり、記憶が少し変化することもあるでしょう。

現実にどうだったかはさておき、実際、混乱の中を生き残ってきた人々がいて、家々があり、そのストーリーがこうして口づてで残っていくことはとても興味深く、素晴らしいことだと思います。

 

さらに、終戦直前ゆえに当時は大きく取り上げられなかったと聞きますが、三河地方に大地震(マグニチュード7.9と言われる)がありました。その際にも倒壊しなかったわけですし、1959年の伊勢湾台風でも大きな被害を受けなかったようです。

 

 

この家を掃除していると、しみじみする瞬間があります。この家はいつもなんと生き生きとしているのだろうかと。この家は旧東海道から程近い位置に建てられ、当時はとても賑やかな市街地だったようです。岡崎市史に賑やかな頃の写真が載っていました。大八車(人間が引いて荷物を運ぶ台車のようなもの)が並び、商いの活気のある雰囲気が漲っているように見えます。それが今はとても静かで穏やかな住宅地になりました。この静かな環境でこの家もとても静かに佇んでいます。

この地域はとても静かですが、人の息吹を感じることができます。そして、この家もまた、とても生き生きとしています。歳を重ねて老い衰えるのでなく、歳月を重ねることがこの家に力を与えているかのようにも思えてきます。実際、建築物としての大きな問題も出ていませんし、旧くても古びた印象がありません。存在感が増しているように思えます。これは、まさに、本来の日本人そのもののようですね。

 

 

 

これらは私の個人的な感覚です。

訪れてくださる皆さまは、いったいこの空間をどのように感じてくださるのでしょうか。

そして、この家はこれからどのような出会いをし、どのような営まれ方をしていくのか、楽しみでなりません。

お陰さまで、開かれた未来を感じることができています。

ありがとうございます。

 

 

   大辻 織絵