国登録有形文化財 「旧石原家住宅」(通称:石原邸)

 毎年秋恒例の「国登録有形文化財 建物特別公開 2019」は

11月9日土曜日〜11日月曜日迄の3日間、

開催いたしました。

お越しいただいた皆さま、ご協力くださった皆さまに、

心から感謝申し上げます。

ありがとうございました。

 

会期の様子はこちらにまとめました。

ぜひご覧くださいませ。

 

2020年も開催を予定しております。

開催要項は毎年9月にこちらサイトにてご案内いたします。

 

母の生家であり、父も心にかけてきた幕末築の古民家「旧石原家住宅」(通称:石原邸)。

この家で生まれた母より、2004年に私が引き継ぐことになりました。

平素は公開しておりません。年一回の愛知県をあげての国登録有形文化財特別公開日(毎秋開催)に独自企画の催事を催し、広く一般のお客様にご観覧いただいております。それ以外には、場合によっては、ご縁の方に催事場などとしてお貸しすることもあります。

 

この家に置いて私が一番大切にしたいことは、この家を預かりしている私達夫婦がこの世を去った後にも、文化的歴史的な意味のある建物として健康な形で残るように努め、必要な方々に喜んで使っていただけるように、ということです。このような江戸時代さながらの古民家が100年後も健康であり、人々に親しまれている未来を展望しながら...

 

 

登録文化財 建物特別公開催事の歩み。

160歳を前にして、なお、健在なる家。

「旧石原家住宅」(通称 石原邸)は、幕末期の安政6年(1859年)、当時の当主である石原東十郎によって建てられました。当時はこの辺りの庄屋であり、金融業も営む、薪や炭、米穀を扱う商家でした。京都の公家衆との親交があり、東十郎は商人でありながらも、蔵人という武士の位を頂き、尊王派と親交を持ち、志士達を援助したりかくまったこともあったと言われています。また、商家でしたが、家の作りには農家の方式が採用されているのが珍しいとされています。

東十郎の後、石原家には代々女子しか生まれず、跡継ぎの男の子は養子をもらっていました。東十郎のあと、宗一郎、耕七郎と続き、昭和の時代には、耕七郎の娘の一人である長女の石原愛子が近隣の学校の音楽教師も務めながらこの家でピアノを教えて生計を立てました。庄屋の名残と思われる借家も何軒か営んでいました。生涯独身を通した愛子亡き後、昭和50年頃から、嫁いだ姪の安子と夫の吉村正がこの家を継承し、昭和風に改装されていたこの家を創建当時の状態に復元。その際に発見された石原家の料理のレシピ本から江戸時代のハレの日の料理を復元し、それを供する古料理店を営みました。古料理店の閉店後は茶会や催しに使われ、一時は民芸店やカフェであったこともありました。

安子亡き後、夫の正と娘の織絵が継承し、心ある人びとの尽力により、平成23年(2011年)、文化庁により主屋、土蔵、庭門が国登録有形文化財に登録。平成25年(2013年)には、岡崎市の景観重要建造物にも指定されました。平成26年(2014年)、主屋の瓦屋根を160年振りに葺替え、みなさまのご協力により、徐々に修復を進めています。

 

近年の修復の歩み。

昭和55年頃、昭和風に改築されていた部分を取り外し、創建当時のような姿に復元しました。

平成27年〜28年にかけて、主屋と庭門を修復しました。

平成28年〜29年にかけては、土蔵外壁の修復、屋根の葺き替えを行いました。

平成28年頃から、主屋屋根葺き替えで出た土と瓦を活用し、門の前あたり瓦土塀を設え、門前の佇まいを整えました。

平成30年11月から主屋と主屋周りの犬走りの土間修復を始め、平成31年2月末に修復終了しました。

 

三つの大きな戦災、災害を乗り越えてきた古民家。

父から、中庭に面する板戸に残る黒い点々を見せられながら、これは焼夷弾のあとなんだと聞かされました。第2次大戦中、岡崎も空襲に見舞われ、旧市街地が瓦礫と化してしまいましたが、その時の火災を免れたのだと聞かされました。父は石原家が面する西側の道路の向こうまで火の手がきた、風向きが変わって助かったんだと臨場感たっぷりに話してくれておりましたが、経験したのは母や、父母を引き合わせた大叔母のはず。しかし、父は石原邸をいたく気に入っておりましたので、その真偽はさておき・・

石原家が登録文化財に登録された頃、二軒お隣のお宅の中庭に入らせていただいたことがありました。その時、ご主人から、西隣りの家が燃えていて、いよいよ火の手が移ってきそうだというところで風向きが変わったのだと。あそこに焦げ跡があるでしょうと屋根瓦を指差して教えてくださいました。私はてっきり、父から聞いた、石原家のすぐ隣まで火の手がきたのだと信じこんでいたのですが、よく考えれば、そちらのお宅もかなりの古民家。その時に燃えていたら、あのような佇まいでは残っていないはずです。

戦災時の混乱たるや想像を絶するものがあったでしょう。厳密にここまで燃えた燃えないという線を簡単には引けないものでしょうし、修羅場を生き残った安堵感なども想像以上のものがあり、記憶が少し変化することもあるでしょう。

現実にどうだったかはさておき、実際、混乱の中を生き残ってきた人々がいて、家々があり、そのストーリーがこうして口づてで残っていくことはとても興味深く、素晴らしいことだと思います。

 

さらに、終戦直前ゆえに当時は大きく取り上げられなかったと聞きますが、三河地方に大地震(マグニチュード7.9と言われる)がありました。その際にも倒壊しなかったわけですし、1959年の伊勢湾台風でも大きな被害を受けなかったようです。

 

 

この家を掃除していると、しみじみする瞬間があります。この家はいつもなんと生き生きとしているのだろうかと。この家は旧東海道から程近い位置に建てられ、当時はとても賑やかな市街地だったようです。岡崎市史に賑やかな頃の写真が載っていました。大八車(人間が引いて荷物を運ぶ台車のようなもの)が並び、商いの活気のある雰囲気が漲っているように見えます。それが今はとても静かで穏やかな住宅地になりました。この静かな環境でこの家もとても静かに佇んでいます。

この地域はとても静かですが、人の息吹を感じることができます。そして、この家もまた、とても生き生きとしています。歳を重ねて老い衰えるのでなく、歳月を重ねることがこの家に力を与えているかのようにも思えてきます。実際、建築物としての大きな問題も出ていませんし、旧くても古びた印象がありません。存在感が増しているように思えます。これは、まさに、本来の日本人そのもののようですね。

 

 

 

これらは私の個人的な感覚です。

訪れてくださる皆さまは、いったいこの空間をどのように感じてくださるのでしょうか。

そして、この家はこれからどのような出会いをし、どのような営まれ方をしていくのか、楽しみでなりません。

お陰さまで、開かれた未来を感じることができています。

ありがとうございます。

 

 

   大辻 織絵