燕の子育てライブストリーム。

富山県が県内のとある場所に作られた燕の巣の近くにカメラを据え、「燕の雛が巣立つまで」というライブストリームをやっている。このライブストリームを見つけたときは5個の卵のうち2羽が孵ったばかりで、毛の生えていないぐにゃくにゃの姿だった。全部の卵が無事孵り、全羽が順調に育っている。
時々覗いているが、まるでじかに観察している気になってきてしまう。孵ったばかりのがだんだんと毛が生え揃ってきて羽根が黒光りするようになって、手羽先のようだった頼りない腕が始祖鳥の羽のような形を経て燕らしくなってきて、土偶のようだった目が顔や頭の骨格や筋肉がしっかりしてきて可愛く開いてきて、おぼつかなかったからだの動きが力強くきびきびしてきて・・・
小さな巣のなかで5匹がひしめきあって、羽繕いしたり羽ばたきの練習のようなことをしたり。まだ少し産毛が残るが、今にも巣立ちそうな青年らしいようなエネルギーのみなぎりが観えて、そんな彼らの成長を見ていて、とてもほほえましく感じる。それと同時に、人の老いていくプロセスは赤ちゃんに帰っていくようなものだ、と誰かが言っていたことが想い出された

このプロセスを見ていても、確かにそのように感じる。燕らの赤ちゃんは生まれたてのとき、超高齢のおじいちゃんのようだった。育ってきて、だんだん若者らしくになってきたものなぁ。
しかし、人間の赤ちゃんはあそこまでおじいちゃん的な赤ちゃんはいないし、鹿や馬ほどではないけれど、もうちょっと成熟した姿をして生まれてくるように想う。
「人の老いていくプロセスは赤ちゃんに帰っていくようなもの」という考え方をほんとうにその通りだと聞いていた頃もあったけれど、今はその時ほどにその通りだとは感じられないな。

野性動物は死に際を悟ると姿を消すと聞いたことがある。それは一人で人生を終われる場所、朽ちるままにさせてもらえる場所ということなのか。


昨年末辺りから、いつか来るこの世を去るという出来事を強く感じるようになった。同時に、今までの人生で一番愉しくなってきていると感じるし、自然に自分らしくあるような感じがしている。それらは相反しているようなことにも想えるかもしれないが、あとどれくらいあるかわからないこの人生の時間の最後の0.0000‥1秒まで、より愉しみ、より無駄な無駄を手放し、しっかりと目を覚まして、色々な出来事を自分を観ていたいと想う。
燕がその飛ぶ姿で空中をスライスするように清々しい、覚めた目で過ごしていきたいと思う。