生物としての力。

梅雨らしくむんっとした空気になってきましたね。人間には徐々にキツくなってきはじめるこの時期、動植物はどんどん元気になっていく。そんなムードを感じながら、燕の巣立ちのことを書きたい書きたいと想いつつ幾日。

「燕の雛が巣立つまで」富山県がやっていた燕の雛の巣立ち観察ライブストリーム。無事、最後に残った一羽も飛び立っていきました。
最初二羽が飛び立ち、1日2日経ってまた二羽飛び立っていき、最後の一羽は何となしおぼこい様子には見えたけれど、なにかとてもあっけない感じで飛び立っていきました。

巣立ち後も空いた巣をそのままライブストリームしていて、子ども達も親たちも時おり戻ってきていたり、後日アップされた巣立ちハイライト集なんかをちらちら見ていて、巣立ちということをとても一面的に捉えていたんだなぁと‥今になってみてつくづくと想った次第です。

巣立ちの2番手3番手より後の雛たちには、なんらかの巣立ちへの促進的なこと‥例えば、餌を運ぶ回数を少なめにしてみたり、遠巻きに見ているとか、そんな風にいささか圧迫感を感じるようにしてグッと引っぱり出さないと巣立てなくなっちゃうんじゃないかとか、そんなことを自動的に想ってしまいました。

そもそも、一羽目が飛び立ってから餌を運んでくる親の姿が映ることが減ったような気がするというだけで、そんな発想していたなんて。始終見ているわけでないのだから、ほんとうに親がやって来る頻度が減ったのかどうかもわからないのに。そういう条件反射的発想傾向っていうのは気づいていないだけで日常、そういうことは山ほどあるのだろうなぁ。

鳥と人間じゃ違いましょうけれど、私自身、人間としての巣立ちに関しては結構悩みがあったかも。悩みつつ、自分で自分自身をどうやって親元から引っ張り出すかを考えに考え、あれこれがんばってはみました。とても頭を使っていたなぁと‥今になってみれば想います。もっと自分の「生物としての力」をしっかりと感じられていたら、悩みももっと少なかったのじゃないかなぁなどとね。

そんな想いを巡らせていると、6-7年前に真我開発講座というものと出会って、そのなかで、それまで全く感じたことのなかった体感覚を感じた。胸の奥に熱のような、灯りのようなものがある体感覚。
あの経験は、割りと頭とよっこらしょよっこらいしょと働かせて、感情の波に翻弄されながらも、頑張っていた自分が、「生物としての力」に気づきはじめた一歩だったのかもしれません。