花を生ける。

企画展「巡りゆく生と死のなかに継がれていくこと」

こちらでコラボレーションした花作家の森直子さんは会期中、関西でお仕事だったので、私が作品の草木のお世話をさせていただくことになった。草木は岡崎にある母の成果の庭から採取して出きたもの。朝か夕方が採取にはよいものことで、水揚げはうまくいって彼女は喜んでいたが、グッと蒸し暑くなったこともあり、私が一人二役三役というのもあり、草木への神経が行き届かないタイミングができてしまった。花展というのは想像以上に難しい取り組みなのだな。

暑いからといってエアコンをいれるとやたらに乾燥する。しかし、いれない訳にはいかない暑さ。私にはトリッキーに見えるオアシス使いもあり、湿潤なところに自然に生えるシダ類あり、長くまっすぐな茎を生かす向日葵の生け方あり、水が腐りやすいという苔と草木の併用アレンジあり、お世話をしてみると、直子さんの技術力も感性もその素晴らしさがずんずんと感じ取られた。
私の書「継」と直子さんの枝の作品「血脈」の横に立てられたメインキャストたる向日葵の作品。2日目の朝、せっかく茎は大丈夫だったのに、花びらが2-3枚垂れてしまった。私の気が行き届いていなかったからだ。申し訳なかった。予備の向日葵も疲れさせてしまっていたので、寛記さんに花屋で調達してもらう。オリジナルはオレンジに近い黄色だったが、それは、形・サイズは申し分ないもののレモン色の向日葵だった。とにもかくにも、生け花を勉強していた友人の力を借りて何とかオリジナルの代わりに立てる。向日葵の根本に挿したシダ類は予備がピンピンしていたので挿し替える。でも、みるみる乾くので霧吹きで水分を与えてもらう。2日目の音浴liveを終わって気づいたが、怪我の功名というか、向日葵の黄色が薄い色になったことで、メインキャストが一歩控えてくれたようだと感じた。音楽にメインを譲ってくれたのか。3日目は今度は上から4分の1程のところでクタッとなってしまった。慌てて三代目をスレスレで調達。今度はゴッホの向日葵のような向日葵。一日に一種類の向日葵がこのポジションを担当することになった訳だが、この作品の向日葵は、直子さんによれば、彼女の娘さんや私なのだそうだ。血脈の一番枝の先。まさに、血筋の最先端ということ。最先端の世代にも色々ある。親からすれば、上がったり下がったり手がかかる。私は手のかかる私自身をお世話したということなのか。

「力」[ryoku]の足元に飾られたのは、母の家の紋入りの螺鈿細工のお重に山桜の枝、苔、ドクダミと松による作品。緑と白のグラデーションの作品にも関わらず、まるでおせちのお重の蓋をあけたときの「わぁ~」感がある作品。こちらはほぼなんとか最終日までもった。桜の一枝とドクダミの花が傷みだしたが、ドクダミの傷みに私は愛しさを感じた。酸性の土地に生えるといわれるドクダミ。酸っぱめの臭みがある。プラスの極に傾いた土地にバランスをもたらすのだろう。きれいな白い花びらは可憐で健気だが、花びらに傷みが来たぐらいではへこたれない強い植物だ。まさに、「力」ということか。

背丈のある壺にドウダンツツジの枝のみを生けた作品が「孕」[yo]と「背中と手」のそばに。今回の直子さんの作品のなかではこの作品が一番高さのある作品だった。気持ちのよい広がりもあって優しさと潔さが同居する作品だった。残念なことに、2日目出勤してみると、葉がことごとくカリカリに!!これも私の気が行き届かなかったためだ。2日目以降のお客様に見ていただけなかった。ほんとうに申し訳ない。代わりに予備の枝をその壺に挿してみるも、直子さんから「欲」の足元に飾った南天の陶器のお重に挿した南天の作品をドウダンの壺の置いてあった位置に移動してね、とのこと。なるほど、こちらは壺の作品より大分小さめだが、やってみるととても調和した。
彼女はこのお重に南天を生けてみたところ、なんとお重の柄も南天だったの!と喜んでいた。約15センチ四方のお重にたった一本の南天が生けられている。これがまたバランスが凄くよく感じるのだから、唸らされる。

この企画展の原点である直子さんの枝の作品の「血脈」のすぐ下には一輪挿しの小品が楚々としている。フロートの開かれたスペースに一本だけ立つ太く真っ白な柱の前にそれが置かれて、「血脈」が落とす影がまるで達人の描いた墨絵の屏風が下がっているかの如き様相。楚々とした小品と現実には存在しない掛け軸。なんと凄みのある状態!これはたくさんの方の心に響いたようだ。写真を撮っていらした方がとても多い。

影といえば、「魂」[kon]の後ろに置かれた作品。名前のわからない常緑樹の枝を、これまた用途のわからない金属製の蓋付き容器に挿してあるもの。枝の切り口がしっかりと水に浸かることのできる状態なので、水をしっかり替えていれば、かなり持つ感じ。一面の白い壁のコーナーに飾られていて、外光の当たり方、ライトの当て方で枝の影が様々に表情を変える。コーナーという異なる角度に影が映る白い背景を背にしているせいか、この一見シンプルな作品が、全体としては複雑な印象に変身して、含みのある雰囲気。私が感じている「魂」という字の発するエネルギーと対応していた。

片付けのとき、一本一本花材をオアシスなどから外して、残す残さないを吟味した。せっかくの花材なので、少しは家に持ち帰って生けたかった。向日葵と残ったのは「魂」の後ろの作品の枝。おもしろい形だ。自分ならこれは切り出してこない。この感覚、素敵だ。刺激される。家の花瓶に挿そうとしていて、枝や葉の剪定の仕方の絶妙さに気づかされて心底感心した。花を習ったことはないし、花の先生が生けた花材をもらってくることもないし、なんと貴重な体験をさせてもらっていることか!これが生け花のセオリーに叶っているかは私には全然わからないし、家にある花瓶なんて二つしかないが、私の勝手な感覚が暴走して、向日葵と一緒に生けた。
うーん。いいぞーー