先日の音浴liveで友達が撮ってくれた写真。これを見たとき思い出されてきたのが、このもう一枚の写真。父が撮ってくれた若かりしころの母と幼い私。
なぜこんなにも似た写真に?なぜ、友達はこの写真だけをモノクロに?理由というより、そんなキモチになってということなのだろうけれど。
このおじさまは父母のご縁。一昨年、亡くなる少し前の伯母のお世話になっていた施設で演奏させていただいた際にご夫婦お揃いでお越しくださって以来、しばしば音浴においでくださる。それも奥さまや息子さんと。そして、今回は息子さんは奥さまをお連れくださった。
ジュースを飲んでいる私とそれを見守る母。ビールを飲んでいるおじさまと素の私。
場所も立ち場も時間も状況も撮った人もなにもかも違うのに、こんなにも似ている。
企画展のテーマだった「巡りゆく生と死のなかに継がれていくこと」がひとつの姿としてここに現れていたのだ。
おじさまのご子息にこれを差し上げることができ、わかちあいが出来、ジンとして、切ないようなあったかいような、心地がした。
織絵ちゃんの声がもっと聞きたいといって、
椅子を引きずって目の前に座った、私を幼い頃から知っているおじさま。
感じるままに振る舞えるようになるのもなかなかたいへんなこと。
歳を取るということはほんとうに素晴らしいことだと、自分も40代後半になって来た思うようになった。
まったく覚えがない。でも、確実にこれは私と母だ。
何十年と生きてきても、経験してきたことには殆ど覚えがない。
記憶やには残っているのだろうけれど、それを全て認識することは出来ないから。
こうして写真に残っていると、それは現実に起こったことなんだろうが、ほんとうにそうなのかと思う。
まるでこの世の全ては夢だ。