それもあり得ることと仮定してみる。

あの時こうしてたらこうだったのに‥そんな仮定の話をするのを極力しないようにしていました。そんなこと幾ら言ったって何ともならないのだから、喋るだけ無駄だし、自分の不甲斐なさを自分に突きつける感じもして、とても受け止めきれなかったからというのもあるように想います。それに、その時期、自分を変えたい!人生を変えたい!と必死になっていて、発する言葉は私の宇宙に影響を与えるのだから、言葉には気を付けねば‥と努めておりました。しかし、そういう波が去ってみると・・・もし○○だったとしたら、というのは一種の純粋な好奇心の働きゆえのことだったり遊びのようなものだなぁと感じるように。。

で、最近何度かこういう過去の仮定法じゃなく、事実としての仮定法という考え方が目の前に現れます。

「それもあり得ることだと仮定してみる」

人間ってやっぱり自分の信条や考え方、好みなどあり、目の前に現れたものごとを、これはほんとうだとか、これは違うとかついつい振り分けてしまう心の働きがある。ウソでしょうとかあり得ん!と想ったことに出くわしたら、シメシメとばかりに「それもあり得ることだと仮定してみる」。
自分自身の信条や考え方、好みというのはやっぱり誰とも同じじゃないオリジナルなものなので、やっぱり大切にできたらいいと想う。それを捨てなくてもいい「仮定」とは、なんておもしろい、なんて便利な発想を人間は生み出したものか。

好奇心や想像力をドライブさせ放題にする。物理的には非生産的かもしれないけれど、頭が柔らかくなりそう。新しい発想や学びや気づきが生まれそう。子供達はふつうにやってることだものな。