墓参り。

父方の家にはお墓がなかった。時間があると、父は西尾のとある山に出かけていたのだが、その麓に出来たたいへん眺めが良い墓地の一画にお墓を買った。

祖父母の位牌を独りで守っていた伯母が施設に入って何年か経った頃だったと思う。その少し前、母の実家の屋敷ー「石原邸」を他人様にお貸しすることになった。母方の家は、とうの昔、母が嫁にでて跡継ぎはいなくなっていたし、これを機会に仏壇は生抜きした方がよいと思い、二つあるお墓も一緒に生抜きすることにした。石原家の家が色々な方がいい時間を過ごしてくださる場所となって生かされるなら、「石原家」の人々の生きた証しもより生かされるのだからと思われ、お墓や仏壇を無くすることに抵抗感はなかった。

しかし、今ある石原家の建物を建てた東十郎さんという先祖のお墓を無くすることは少し躊躇われた。東十郎さんのお墓は本人のたっての願いで岡崎市の旧市街地を一望する山の上に建てられた。この墓地には大木が一本あり、その脇に東十郎さんのお墓はあった。夏の墓参りは特に印象に残っている。蚊にたかられながら、強い風が吹くところなので、ろうそくに火を点けるにも時間がかかり、父娘していつも騒がしくなってしまい、神妙になりきれない墓参りだった。

夏のじりじりと照りつける日射しから詣でる我々を枝をいっぱいに広げて守ってくれていたあの大木も伐られた。墓地の周りは造成されて広くなり、東十郎さんのお墓の一体以外は区画整理されて、整然とした。そこで重ねてきた想い出や懐かしさもせ依然とするのと一緒になくなっていく感じがした。すべては変わっていくものだ。思い切るだけだ。そうして、今、私の父母先祖にまつわるお墓は父の買った西尾の貝吹墓地にあるお墓だけとなった。

 

母の実家の築160年の家—「石原邸」を父はいたく気に入った。誰も住まなくなった後、創建当時のように復元すべく手を入れた。石原邸を建てた東十郎さんのことを父は他人とは思えないと言っていた。生き様が重なるというようなことを言っていた。父と母は結婚でひとつになった。わたしという子どもが生まれたということだけでなく、家として、仕事という形としてもひとつになった。結婚生活の間、何があろうとどうであろうも二人はやっぱりひとつだった。私にはとてもそうは思えない20年間もまた二人はひとつだった。結婚するということは、二つの家が一つとなることだ。それは、封建制の時代の「家」に対する考え方を遥かに越えている。二つの先祖とそのすべてが一つとなることだと結婚する時に私は強く思った。あれほど結婚を無理だ、いやだと思っていたのに。

妻の家には恵まれなかったものが、夫の家に恵まれていることがある。その逆もある。両方恵まれているものもあれば、恵まれていないように思えるものもある。それらすべてが一つに溶けあって、ひとつの完全さ「十」となり、血族の先頭である二人の結婚と結婚生活で化学反応が起こる。そして、百にも千にも万にもなる。もちろんそれは二人の子どもであったり、物であったり、事であったりする。もし離婚したとしても、子どもが生まれなかったとしても、自在なありようで無限に生きていく。そんなことを感じる私にとって、貝吹のお墓は父方のお墓だが、私達の前に生きた人々全ての記念碑のように感じる。

夫がいつも、お墓参りの口火を切ってくれる。今回もそうだ。夫の家にも古くから由緒あるお墓がある。熊本に行く時は必ずお参りさせていただく。お墓の掃除をしながら、夫のお墓も私の先祖のお墓であるのだなという気持ちになる。夫も貝吹きのお墓のことを似たような気持ちで感じてくれているような気がする。私達二人のことを全ての先祖が見守ってくれているのをそうしてしっかりと感じる。

 

貝吹のお墓を掃除しようとして花生けをどけた。すると、親子か兄弟か夫婦かと言いたくなるような大小のカエルが姿を表した。突然環境が変わって、二匹は逃げ出した。貝吹のお墓は少し変わった形だ。父に任せてもらって、お墓というより、建物の土台のようなお墓らしくない形にデザインさせてもらった。そこに一部土の部分を作り、シバザクラを植えたのだ。今まで思いもしなかったが、カエル達に出逢ってみて、いつの間にかシバザクラは自然に小さな森になっていたのだと思った。枯れてはみ出した枝を取り除いていると、その小さな森の逆の端からもう一匹、カエルが飛び出してきた。同じ種類のカエルだった。カエルの生態を知らないので勝手な事を想い浮かべてしまうが、カエルの家族がその森を住処としているんだと空想してしまった。ごそごそと掃除をしていると、最初に現れた二匹の小さい方のカエルが戻ってきた。大きい方は、夫が気にして追いかけていったが、そちらも程なく戻って来て隙間に潜り込んだ。後に飛び出したカエルもぴょんぴょん飛んで、先の2匹の隠れたところに入り込んだ。あの炎天下の中で、小さな森が自然に出来あがり、水のたまるところもあってか、そこに小さなカエル達がいる。お墓には今、最後まで祖父母の位牌を守っていた伯母と母のお骨が入っている。二人はもちろんそこになんかいない。だけれど、こういう機会にここに来て、ふだんとは少し違う気分で改めて二人に思いを馳せる。伯母と母が仲良くしているところは観た記憶がないし、伯母のことは亡くなる1年くらい前までどうも怖くて、素直になれない私だった。その最後の一年の間に怖かった伯母の顔は別人のように優しくなった。大したことも出来ない私だが、ありがとう!と言ってくれたりした。そして、改めて手を合わせに来るこういう機会がある。そして、こんなカエル達と出くわした。何か繋げて考えそうになるが、今はあまり考えるのはやめにしよう。あんなにじりじりと暑かったのに、陽が落ちて来るとがくっと過ごしやすくなる。夫がお盆が終わるともう秋だからな‥と言った。