苔、育ちどき。

春にも落ち葉がある。石原邸の庭では、肉厚の重い葉ばかりだ。風で動きにくいし、光を通さないので、ぼんやりしていると苔の生育を妨げる。数日に一度は庭の落ち葉を片付ける。この時期、落ち葉に隠されたところと隠されていなかったところとでは、苔の青々しさが全く違ってくる。苔のことを勉強している訳ではないが、苔の生育には適度な湿り気、適度な日照が要るらしい。木漏れ日の当たる場所は苔は嬉しそうだ。ここの苔はイチから育てた訳ではなく、昔々から生えているものを存続するだけ・・・いや、何年か前、色々あって全くこの苔の庭の掃除に手が付けられない時期があった。その時、苔はいなくなった訳ではないが、苔が生えて美しかった飛び石の間は、落ち葉の厚い層の下で黒ずんだ地面になってしまったように思う。しかし、それでも絶えることなくまた生えてきてくれた。

実生のモチの大木が庭の中央辺りにデンと構えている。母の生家であり、私もしばしば連れて行ってもらい、父望一時期仕事をしていた場所、様々な物事や人びととの出会いを私にの存在もそうだ。前述の肉厚の落ち葉はこの木の落ち葉が殆どだ。夫がこの木は大きく育ち過ぎている、庭の大きさとのバランスが悪いと言った。その言葉を何度か聞いてやっと、いわれてみればそうだなと感じるようになった。確かにこの木はこの庭には大き過ぎる。「これはこういうものだ」からなるべく自由になろうと思って生きてはいるのだが、それでもこの有り様。この木はこれくらいのサイズで別に問題ないと思っていた。それより寧ろ、なんにも意識していなかったんだ。


この頃この大木を伐ってみたくなってきた。そうしたら、光の当たり具合、風の通り具合、地中の環境が段違いに変わるだろう。この大木はなくしても、苔にはこれからも生えていて欲しいと望んでしまう。まことに人間は勝手なことを思うものだ。それが人間と言うものかもしれない。庭師に相談してみようか。

 

 

このところの石原家の庭の苔のようす。