これは、ある晩の石原邸の景色。
お向かいのお宅が解体され、草刈りをなさって、石原邸の前が開けた。その土地の奥に続いている小道があることは知ってはいたが、ちょっと足を踏み入れてみる気になって、振り返ってみるとこんなの中の一軒家のような光景があった。こんな昔ながらの家に明かりが灯っていると、そんな家で育ったのでもないのにも関わらず、何か里心のようなものが湧き上がる。
日が暮れて家に帰る時、家に明かりが灯っているかどうかというのは、気持ちに影響するものなのだろうかと想いが巡る。うちは99.99%の確率で夫婦一緒に家に帰る。子どもも祖父母も誰もいないので、帰る家には明かりが灯っていない。集合住宅だということと、何より一人で帰るのではないということは気持ちに関係しているだろうか。
帰った時、ただいまと言ってそれに応えが返ってくる、そんな記憶を探すと小学生くらいまで遡る。あの頃はまだ母が元気だった。家業が病院だったので、病院の建物も帰る家というものの一部のように感じていた。実の家族ではないが、看護婦さん達(今は、看護師さん、助産師さん、保険師さんと言わなくてはいけないそうだが、40年程も親しんできた呼び名であり、その空気感を大切にしたくなってしまう)、事務員さん達にもどこか家族のような感覚があった。もちろん父と皆さんは雇用関係にはあるのだから、それぞれに帰る家がある。退職就職など人の出入りはある。だが、母からの「おかえり」を聞けなくなっても、私の帰りを迎えてくれる人達が誰かしらいつもいてくれた。
ふと想いが広がる、父はどうだったのだろうかと。父は7人兄弟の下から2番目として生まれた。祖父も医師で、医師に「たたき上げ」といのが相応しい表現かはわからないが、そんな流れで大正明治という時代に大検を受けて大学に入り、医師となり開院をした人だ。子ども達には冷たいと言うか距離をとる人だったと聞いている。祖母もちょっと変わった出自で、おかあさん、おばあちゃん、と親しく呼びにくい雰囲気の人だった。戦前の話しだが、祖父母の家が病院にはお乳母さんがや出稼ぎの看護婦さん達がいて、彼らがおかえりなさいと言ってくれだだろう、彼にとってもそういう彼らは家族のようなものだったかもしれない。結婚して母と家庭を築き、父はしばらくはおかえりなさいといってくれる家庭というものがあったろう。私と母は望まなかったが、新しい家に住むという父の鶴の一声で引っ越しすることになった。それから母が病を得、ある時期から私達父娘の仲は芳しくなくなった。そんな父娘関係のなかで・・・これは後悔なのだろうか・・父の話をもう少しでも心を柔らかくして聞いてあげればよかった、もう少しでも多く笑顔を見せてやればよかった、おかえりなさいを言ってあげればよかったと浮かぶことがある。
母はどうだったのだろうか。母はまだ子どもの頃に母親を失くしたそうだ。母親の姉達が親代わりだったと聞いている。彼女達は、私にとっても頼りがいのあるおばちゃん達だった。結婚後も実家に帰れば、当主となった一番上の大叔母がおかえりなさいといってくれたのだろうか。結婚して、病を得る前までは、母はおかえりなさいを言う側であることが殆どだったろう。おかあさんとはそういうものなのだろうか。
「おかえりなさい」を考えていて、父が亡くなって今こそ、父に心の底から「おかえりなさい」を言える気がする。今更遅いと言われるかもしれない。でも私には遅くない。そう感じられることが私には宝だ。
母ももうこの世にはいない。だけれど、みんなのものだったように見えていた父が、亡くなってやっと私達母娘の家に帰って来てくれるんじゃないかという感覚がする。
彼をうちに帰して欲しいんだ・・私は。
夕刻、中庭より井戸館を臨む。