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映画「玄牝」という痛み。産科医 吉村正の娘としての痛み。

平成最後の年末年始に、ご訪問ありがとうございます。

 

前向きに人生を生きておられる方々には役に立たないお話しかもしれない、ということを先にお断りして、ブログを書きはじめたいと思います。

 

 

◇ ◆ ◇

 

 

昨年亡くなった父の仕事を題材にとった映画「玄牝」。私も父と一緒に出なくてはならなくなり、父をなじっているシーンが映画の一部に使われている。

 

この映画は確かに私たち父娘にダメージを与えた。

素晴らしい側面のある映画ではある。でもそれだけではない。

この世の物ごとは全てそういうものだろう。

 

いい悪いでなく、これは事実だ。

少なくとも私の目線から見たところの、事実だ。




私の父は、「自然なお産」の草分け、第一人者として認知されていた。映画「玄牝」の映画の前にも、テレビ、雑誌等で父の仕事は取り上げていただいていた。書籍も何冊か出版された。

 

私にとって、父は大きい存在だった。「自然なお産」の第一人者としての父が私の父だった、という感じで、私の父が「自然なお産」の第一人者だった、というふうには捕らえられていない。

人間として、50歳になっても自らの親子関係について考え続けるー私自身には「引っかかっている」こととも取れてしまうことが時にあるのだが、そういう私の心のありようはまったく子どもっぽいことのように感じつつ、親と子について、こんな風に子の立場から掘り下げ続けている人間が一人くらいいてもバチは当たらなのじゃないか・・

公開から8年ほど経った。8年が長いのか短いのはなんとも言い切れないが、確かなことは、今だからこそ私はこうして、公開ブログとして正直なところのことを書く気になれたのだと思う。

 

今年は平成最後の大晦日。

総決算をしたくさせらされるのも無理はないのかもしれない。
 

 


2010年の1月だったか、父から「親子が一緒のところ撮りたいと監督が言うから出てくれないか」と電話がかかってきた。父の仕事を題材とした映画の撮影が始まっていることは聞いていた。映画などの題材となることに私は乗り気ではなかったが、父自身がぜひやりたいと思うのなら、それに異を唱えるつもりは毛頭なかった。私自身は映画に登場することなど全く頭になかったが、今回のテーマにおいて、産科医とその娘のシーンはこの映画に不可欠なものだと監督が望んでいるのだと、父はイラっとするほど熱心に出演をせがんできた。

私が出ると何を喋るかわからない、というような話しをすると、あまりよく考える風もなく、二つ返事でとにかく来てくれ来てくれ、という感じだった。

 

 

当時、私は父の反対を押し切って実家を出ており、名古屋で一人暮らをしていた。なぜそんなことになったかを深く触れようとするとテーマから話しが反れる。端的に言うなら、大学進学を考えた頃から私は父の影響下から抜け出すことばかり考えていた。それなのに、40歳近くになるまで実家にいてしまった。母が病を得たあとだったので、そういう状態で一人っ子の娘が家を出ようなんて、娘として人間として罰当たり極まりない選択だという想いはあった。それでも、私にも周りにも母の病を伝家の宝刀のように持ち出す、私が父の考えと違うことを口にすると「批判」や「敵対」と捉え、ひたすらに自分を評価し賞賛してほしい、そんな家庭での父から私は耐えきれなかった。父に自分の本当の気持ち、私なりの考えを伝えられないままこんな歳まできてしまった自分自身の弱さにもほとほと嫌気がさしていた。父の影響下から何をどうしても外に出ない限り、私は何も自分自身で成すことのできないダメ人間のまま人生を終わるという確信があった。

 

そうしているうちに、母が亡くなった。それは父の反対を押し切ってでも実家を出る一つのきっかけになったと思う。

 

 

いくら嫌だったとはいえ一度撮影にOKした以上、この機会に想いの丈を吐き出してやろうと思いながら、撮影の前夜に実家に戻った。監督とは思いの外、和気あいあいと話をした。「私は自然なお産に興味がない」というようなことを彼女は言った。その言葉を聞いて、やたらに安心した。その瞬間、それまで全身に張り巡らしていた警戒のガードがどういうわけかすべて外れてしまったような感じだった。

 

翌朝、撮影開始少し前にマイクなどの撮影の準備ができると、大きなカメラを背負った監督が現れた。全く油断して気を許してしまっていた私は彼女のその姿に威圧された。昨夜の彼女には片鱗も見られなかった冷たい表情をしていた。私を一瞥もしなかった。人生で初めて体験するような冷たい感覚だった。苦虫を噛み潰したような父親と、まるで戦闘用アーマーに搭乗しているような監督と、監督にかしづく家来達といった雰囲気のスタッフに囲まれて、いたたまれなかった。撮影者にとってみれば、あの雰囲気は緊張感だったのかもしれないが、私にとっては、裁定を下される裁判所にいるような感じだった。私は昨日岡崎に戻ってきたこと、ここに座ってしまったことを心底後悔した。この女性は修羅場をくぐってきた人なのだろう、私など思い通りに動かすことなど簡単なことなのだろうと思った。

 

撮影が始まり、監督がカメラのレンズを覗きながら質問したきた。父にか私にだったか、どんな質問だったか、具体的には思い出せない。とにかく、質問してくる人間の目が全く見えないのも身が縮む想いがした。心底恐ろしかった。観察される実験動物とはこんな感じがするのもなのだろうかと後で思った。喉が詰まって声もうまく出ない。いたたまれず、静寂にも耐えられず、私は声を絞り出すようにして父をなじった。私は母の身になったような感じで、寂しかった、辛かったこと、言いたくでも言えないできたことを言葉にしたのだと思う。私がそうやってぐちぐちとなじるのを、父は黙って厳しい顔をして聞いていた。ひとしきり私が話し終わると、「今更どうしようもない、しょうがないじゃないか」というような言葉を父は言った。

それを聞いて、最後に「死ぬまでもうパパとは会わないから」というようなことを言った。

 

 

その撮影はそんなに長くなかったと思う。終わるとカメラをおろした監督は父の隣に座って、二人で私を見た。私はそう感じた。監督は自信に満ちたような表情でまっすぐに私を見て、「がんばってください。楽しみにしていますよ。」と言った。隣で父は頷いたと思う。監督の顔はその時の私には勝ち誇っているように見えた。私はまたいっそう完全に負けた。闘ってもいないのに、そう思った。

 

言いたかったことを言葉にしたつもりだった私に父の「今更、しょうがない」は深く突き刺さった。その場を辞したが、外に出ると辛くてたまらず、一人の友人に電話をした。想いの丈を伝えたのか聞かれ、恐怖で身が縮こまって本当に言いたいことはまだ全然言えていなかったと気付かされた。戻るのも勇気が要ったが、こんなことになってしまった今、中途半端では取り返しがつかないくらいに後悔すると思い直し、現場に戻った。

 

そこにはマネージャーの方と父がいた。奥で談笑するような気配があった。疲れきったような父の姿と、遠くから聞こえる「おつかれさまでしたー」的な雰囲気に、自分自身を抑えもし、守りもしていたぶ厚く重い何かがいっぺんに噴き飛んだ。私がもっとも許せなかった或る人もそこにいたと記憶する。◯◯!出てこい!ふざけんなよ!、父のことを「クソジジー!」と叫びながら、それまで溜まりに溜まった憤怒を声が枯れるほどぶちまけた。体はへたり込んだが、哭き叫ぶ声はいくらでも出たと思う。へたり込んだ私をそのマネージャーが抱きしめてきた。怒りが募るやら、その温もりがありがたいやら、しかし、身をよじって逃れようとした。吐き出せるだけ吐き出して、泣き叫びながらその場を離れたと思う。よくは覚えていない。

 

 

撮影から1週間か10日程経った頃、父が倒れたという情報が入った。死ぬまで会わないと言い切って出てきた。何があろうと戻らないと心に誓っていた。そんな考え方はバカな意地を張っているに過ぎないと思われるかもしれない。が、ここ最近ようやく気づいたことだが、自分が「病院の一人娘」で「お嬢さま」だと認めたくなく、無意識に洋服や髪型などもそうは見えないように選択してきのではないかと今、思う。「お嬢さま」と揶揄されたり、自分の至らなさの理由は「産婦人科病院の一人娘」「お嬢さま」だからと言われることもあった。騙されやすい、流されやすい、八方美人、NOと言えない、優等生、甘い、世間知らず・・。「産婦人科病院の一人娘」は事実だけれど、「お嬢さま」は生まれや育つ環境で自然に染み付くもので、それゆえにそこから抜け出すことなぞ簡単にできないことだと感じていた。少しでも、一ミリでも、そこから脱却するためには、人でなしだろうが、ひどい奴と思われるてもいい、いい子ちゃんの殻を破る必要があった。

 

それから半年余り過ぎ、その年のお盆に心がひっくり返るような出来事があった。父に会い、直接自分の口からごめんなさいとありがとうと言いたいと全く自分の価値観が完全に180度ひっくり返ったようになった。自分から父と袂を分かつようなことをして、どのツラ下げてそんなことができるかという想いをかなぐり捨てる時だった。格好をつけようとする自分を捨てる時だった。

 

父に再会することができ、心の底から父に謝り、今までとは次元の違う親子の会話ができた。それは私たち親子にとってはかけがえのない想い出になった。しかし、その年の秋、映画「玄牝」がよりにもよって、私の誕生日に公開されていた。偶然なのだろうか。公開日は私の誕生日がいいと誰かが勧めたのだろうか。父にああして泣き叫んでから半年の間、そんなにあの撮影が嫌だったのなら、自分の出演部分だけはカットしてくれであるとか、何かやれることはあったのだろうに、自分としてはもんどり打ちながら殻を破ったつもりなのに、未だ私は自分の本心や願いを口にすることをものすごく怖れていた。確か、編集に関しての連絡をもらった時に、どんなにあなたたちは我々の生活に土足で入ってきたか、我々の人生を利用して自分の作品を作ったのだということを心に留めてもらいたいというようなことを制作側に一方的にメールで送るくらいが関の山だった。

 

こんな考えは全く後ろ向きかもしれないが、私はあの時自分を大切にできなかった、自分自身を他人の好きにさせてしまった、その想いは未だ拭いきれない。何であれ過去のこと、前を向いて、これからのことに前向きに取り組んで行くのが人生のあるべき姿なのかもしれない。私以上に遥かに悔しい思い、報われない想いに苛まれながらも、前向きに明るく一生懸命に生きていらっしゃる方はたくさんおられることと思う。それが大人というものだろうと思うし、こんな過去に囚われた人間を誰が相手にしたいと思うか。私もそれなりには前を向いて人生を生きてはいるが、ここからはまだ抜け出せていない。

 

それでも、私は書いておきたかった。

父が生きている間に再会できたことは本当に得難いことだった。断絶があったその後には、逃げずに誤魔化さずにわかりあおうという芽が前よりは互いの心に生まれた。親子ってなんなんだろう、私は何者なのだろう、何を考えているのか、本当に望んでいるのはなんなのか、自分を掘り下げつづけてきたこと、父の心をノックし続けたという記憶が確かに自分の中にあることは本当にありがたいことだ。

ただ、あの許せない出来事、受け入れきれない出来事、認めきれない出来事を経験したからこそ、そんなありがたい経験ができた、そして今がある、だから過去のネガティブな出来事のすべてがありがたい・・そう心底思えたことはあった。けれど、それで済ませてしまっていいことと悪いことがあると今の私は思う。

 

こんなにお世話になった、だから、その人に対して、なんであれ、すべてありがたいと思わなくてはいけない、受け入れなくてはいけない、もしありがたいと思えなくなったり、受け入れられないことができたのなら、それは私の心がダメになったせいだ・・・そんな風に思い込んでいた。ありがたかったなら、感謝を形にすべきは形にする。相手が同じでも、受け入れられないことはちゃんと受け入れられないことを伝える、おかしいことはおかしいと伝える、それはそれ、これはこれ、という考え方が全くできなかった。そうしないことで、相手に変な気を起こさせたりすることを私はわかっていなかった。長い時間がかかったが、やっとそういうとても基本的なことを知ることができた。

大切なのは、今度はそのように行動できるかどうかだ。

 

 

まっすぐに現実を見て、自分の弱さに振り回されず、行動していこう。

 

8年前のあの頃よりは太くなった自分が今ここにいることを、まず私自身が認めよう。