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映画「玄牝」という痛み。産科医 吉村正の娘としての痛み。③(父の誕生日に思うこと。)

 

今日は父の誕生日だ。一昨年秋に亡くなってから2回目の誕生日を迎えた。

 

今日、こうして再びこのテーマで書いているのは、父の誕生日が今日であるということはもちろん、この映画の初公開日が奇しくも私の誕生日だった、ということもある。

 

私の父は、私と親子のシーン撮影の後、2月頭に脳血管障害で倒れた。79歳だったろうか。撮影は前の年には始まっていたようだが、取材などが入るといつも以上に仕事に熱が入ってしまう父だった。今になって当時の父のことを聞いたりしていると、24時間体制の勤務を続けながら、映画の撮影もあり、さらに1〜3ヶ月に一度のペースで県外での講演も受けていたようだ。私の振る舞いや言葉のせいで父は倒れてしまったのではないかと自分を責めていた時もあったが、あのようなスケジュールを見ると、正気の沙汰ではないように思える。それも全て、彼らしいといえば彼らしいのだが。


玄牝が公開されたのは、父倒れてから9ヶ月後くらいか。父が私の誕生日を公開日にして欲しいと言ったとはどうしても思えない。単に、この日が日曜日だったからなのかもしれないし、自然なお産の業界では有名な「いいお産の日=11月3日」に近く、秋の催事をいかにも入れやすい休日だっただけのことなのかもしれない。

父に、その事をどう感じていたか聞けばよかったと思う。何とも思っていなかっただろうか。もし聞いたとしても、わしゃ知らん、というだけだったかもしれない。

 


父は本当に情熱家で、ひとつのことに打ち込む力も並外れた人だった。それに、非常にシャイなところもあった。28歳から産婦人科の開業医として生きてきた人だが、寝ても覚めても明けても暮れてもお産、お産、お産という日々に50~60代頃から急激にシフトしていったという印象がある。現代医療者の行き届いたバックアップ体制のもとで、母子のからだの中にある自然を最大限に活かしきるお産・・そんな途方もないことを一開業医が一個人病院でやっていたのだ。

 

母が倒れてからの30年程の間で、父が私の誕生日だな、などと私の前で口にしたのは2-3回だけだったかと思う。子どもの誕生日を覚えていられなくても仕方ないし、思い出してくれていたとしても出せずじまいだったこともあるだろう。刑事ドラマなどによくある、子どもとの約束を果たせないで、家庭崩壊していく我が家庭を憂いつつも、手を打ちようもなく苦悩する父親像・・父にもそんな想いがあったのだろうか。

これは父を責めているのではないし、何かしてほしかったということでもない。今更、何かやってくれたら良かったのにと思うのでもない。ただ、医院の手伝いをするようになってから、父は私の誕生日をひとりでに思い出すようなことがあるのかを確認したいという想いがあった。

 

「織絵、今日はお前の誕生日だな」・・そんな言葉をかけてくれただけで、私は殆どだいたい満足な想いがした。もうそれだけで満足よ、パパ!なんぞとスッと言わないのが私の娘としての可愛らしくないところだったろう。

なんにしても、父のお陰だと思うことは数えきれないが、こうして書いていると、その父の一言が、いかにも"父親らしい"ところを私の心に残してくれた一番のものだったようにも感じられてくる。

 

 

 

母が二度目に倒れて、それまでの溌剌としていた母ではなくなってしまったことは、我が家をガラリと変えた。私は自分自身のことで精一杯になった。これも母を責めているのではない。母だって不本意で辛いことも多かったろうと容易に想像できる。

 

そうなって、私の方は父に対してどうだったかといえば、父の誕生日を祝ってあげたことが殆ど記憶にない。カードを書いた記憶が何度かあるくらいだ。いつの頃からか、医院のスタッフの皆さんで父の誕生日会を開いて祝ってくれるようになった。スタッフの方達のあたたかいお気持ちだったのだなと改めて思う。私と父の間があまり芳しくないことはスタッフの皆さんも感じておられたろうし。

 

 

先月、実家を片付けていて、引き出しの奥の方から小さなグラスの入ったプレゼント箱が出てきた。一緒にあったカードを見ると、自分が父にあげたものだった。こういうものを見るとすこしづつ過去の記憶が引きずられて甦ってくる。父は何でも持っていて、欲しいものは何でも手に入れてしまえる。そんな全能にも見える父に喜んでもらえるものはないかと考えてもなかなか思いつかない。

引き出しの奥から出てきた箱には100年くらい前の欧州産の小さなグラスが二つ入っていた。欧米の文化や考え方を「毛唐!!!」とディスりまくっていた父に私は何を血迷ったのか、そんなものをプレゼントしていたのだ。少し申し訳なさそうなメッセージを添えて。父がそれを使わないで引き出しに仕舞わざるを得なかった父の気持ちも今ならわかるような気がしないでもない。でも、その時の私には精一杯の贈り物だった。小さくて、とても透明感のある、しかし厚手のシンプルなグラスだった。

 

別の戸棚から父に送った手紙も出てきた。玄牝撮影のあと、もう死ぬまであなたには会わないと飛び出してから再会を果たして後、折に触れ、父に手紙を書くようになっていた。

それらの手紙に書いたように、私がもっと早く、私からの目線を少し脇において、父の身になってものを見られる人間でもあれていたなら、情熱家でシャイで無我夢中で、飛んでもない悲観主義者で、途轍もなく威張りたがりで、頼まれたら自分を殺しても放っておけないくらいの情の篤かった父のことを、親というより、もう少しでも一人の人間としてみることができていたなら、心の奥底からの親への気持ちを手紙に書けただろうか。

 

手紙はじかに渡しに行ったときもあって、目の前で読んでくれたり、読んであげたこともあった。父は涙を流したりした。

もっと早く、5年でも10年でも早く私がそうできていたら、父は倒れずに済んだのだろうか。玄牝という映画も、もっと違う映画になっていたのだろうか。そもそも、玄牝そのものが存在しないということもあったのだろうか。

 

 

玄牝の周辺について色々と調べるうち、父はもっと吉村医院に集った方達に玄牝を見てほしいという想いが強くあった事を聞いた。私には痛いものであっても、彼にとって一世一代のものだったろうことはよく理解できる。私が医院で働いていた頃までは、権威的なものについてポーンコロコロ、などと言って父は批判し、退けている風であったが、自分の名を世に知らしめることのできる出版や取材などについては前向きだった。

また、倒れてから、ある学会で名誉的な賞をいただいたことがあったが、その時父は泣いていた。自分が気にかけてきた母の実家が文化財として登録された時にも涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。年を取るとはそういうことなのだろうか。きっと両方ともが父の真実だ。

 

奇しくも、そんな父にとって自分が世の中により知られ、評価された証であり、今後益々そうしてくれるであろう、全編が自分の仕事、医院を題材にとった映画の初公開日が私の誕生日となっていたという、この何のいたずらかわからないが、恐ろしいほどぴったりとはまったという事実。

もし、私の心からこの映画の痛みが少しづつでも薄れていったとしても、私は自分の誕生日を迎える度に死ぬまで、この映画にまつわる記憶を思い出すのだろう。

 

私はたった二度だけ、玄牝の上映会の場に身を置くことができたが、父と自分のシーンは全く目を背けたくなってしまう。他の部分も凝視しているのは難しかった。私の心がもっと強くなったら、全体をくまなく鑑賞できるようになるのだろうか。

 

玄牝は、当の父本人の本拠である吉村医院界隈でも上映回数は多くなかった。無料の上映会が開催できなかったこともあるだろうが、今年になるまで、玄牝についての正直な気持ちを公にできなかった私の、無言のうちの「呪」のせいでもあったのだろうか。

 

 

 

自己啓発や魂の学びといった捉え方などからすれば、何かに影響されて心がざわつかなくなる状態を求めていくのが人の生きる道というものなのかもしれない。ヘタレの自分を乗り越えよう、玄牝周辺から感じる痛みを乗り越えようとして必死になってきた、もっと本当の自分自身への、自分自身を越えたもっと根源的な何かへの探求追究。そこにおいて、後悔するところはひとつもない。やり残したと思うところもひとつもない。間違いだったと思うところもひとつもない。あんなヘタレだったくせに、今不思議にそう感じている。そういう感じ方は不遜だとお感じになる方はおられるだろうが、どんなに不遜と思われようが、愚かだと思われようが、「そう」なのだ。この考え方が意図せず誰かを傷つけるものであるならば、それはもう伏してお詫びするしかない。

 

 

父が存命であった頃には思いも依らなかったであろう、現吉村医院を取り巻く今のこの現状がある。現吉村医院の田中院長もひとつのご決断なさった。この現状は、私が今、飛び込まなくてはならないことの結果として起こっていることでもある。

自分の心の中だけで自分を掘り下げてどうにかなる時期は今は去った、ということだと思っている。

立場によって見方によって、誠に酷なこととなり、誠に苦々しいことであり、誠に残念なことであるかもしれない。「吉村先生が嘆いている」とお感じになる方もいらっしゃるだろう。

 

だけれども、自ら学び自ら育とうとしている3世代目の人びとに対して、可能性をオープンに開いておきたいという意思がある。私が父の娘として育ち、生きてきて、もし子どもを得たとしたら、その子どもたちの為にしてやりたいことだとも言える。

 

 

未だ、父が亡くなったことを根本的に受け入れられない方もいらっしゃるだろう。酷なようだが、父はもう、この世にいない。彼は生きて、あの生身で喋ってくれることはもう二度とない。大口を開けて笑ってくれることもない。不安そうな妊婦さんに「あんたは大丈夫!安心しなさい!」などと言ってくれることもない。

 

先生はこう言っていた、先生はこうだったと語る誰かの言葉の中にも、父はいない。

父の書籍の言葉の中にも、父はいない。

玄牝の映像の中に確かに父は映っており、その一瞬の中に父は一瞬だけみなさんの心の中に蘇るのかも知れないが、映画全体として見たとき、「吉村正」という人間に会えている訳ではない。

 

玄牝は、「吉村医院」や「吉村正」や「自然なお産」と呼ばれているもの、その他出演している人びとというリアルな現実を伝えるドキュメンタリー・ノンフィクションや記録映像ではない。一人の芸術家の鋭い感性を通して新たに創造された創作作品だと私は思う。人間とは何か、を考えさせるものだ。

玄牝を何度観たとしても、吉村医院や自然なお産というものを客観的に知ることは出来ない。寧ろ、ミスリードとなる恐れも孕む。

 

 

生前、父とどれくらいかの出来事や時間をを共にしてくださり、父を慕い、愛してくださった方がたくさんおられる。

特に、父が現役だった頃の吉村医院でお産されたお母さん方においては、そのお一人お一人の表情に、その雰囲気に、その懸命に生きる様に、父の生きざまの片鱗が確かに見えた。

もっと言えば、ただただ目の前の仕事に懸命に勤しむ全ての人びとの横顔にも、何の変哲もない草の原の風景のなかにも見て取れることだってあるだろう。

 

極端なことを言えば、大量生産の工業製品の犬の縫いぐるみのガラスの目玉にすら、垣間見えることもある筈だと私は思っている。