親子、家族について。

親子、家族について。 · 18日 1月 2019
実家の片付けをしています。 片付けに夢中になっていると視線は片付けの対象にばかり向きがちになってしまいます。 ふと、目線を移した先に庭の梅の木が。 梅の花が咲いていました。 気がつかなかっただけで、本当はもう何日か前には咲いていたとおぼしき開き方。 毎年こんな早く咲いていたしら。 一足早い気がします。...
親子、家族について。 · 15日 1月 2019
引き続き、掘り下げつつ、できる限り本心を書いていきたいと思います。 ◇ ◆ ◇ 私はこの映画がこの世から無くなって欲しいと思っている。 この映画は痛い。未だに。膿んで治らない傷のようだ。 映画の中でなじる私に父が放った言葉、「今更しょうがないじゃないか」。 そんな風に流していかなければ、いなしていかなければ、ならないのだろうか。...
親子、家族について。 · 05日 1月 2019
昨年の夏の終わり頃、父が入院することになった。彼自身は医師であり、産院を営んでいたのだが、病院に連れて行ってみろ!末代まで祟ってやる!などとしばしば医院のスタッフや私にきつく言い渡していた。7月に一度、診察をうけさせたいと無理やり病院に連れて行ったが、病院中に響き渡るような大声で医療や医者の悪口を叫び、医療スタッフや我々の手に噛みつこうとするくらいの勢いだった。興奮せさすぎるのも良くないとの医師の判断で、検査は途中までで打ち切った。そんな父だったが、2ヶ月ほどの間に抵抗もままならないほど調子が悪くなってしまい、市民病院に救急搬送することになった。2回の転院をしたが、その間に、我々夫婦がここならもっと早い段階で連れて行きたかったと心底思った施設との出会いがあった。実家からも近く、認知症に非常に理解のあり、認知症のケアに対して力を入れている施設だった。一刻も早く連れて行きたく、病院や受け入れ側と相談を繰り返した。いよいよその日取りが決まったのが、この特別公開企画開催の一週間ほど前の頃だった。 特別公開企画は、建物内部をお見せするだけでよいといえばよいのだが、せっかくお越しいただいた方に、ひとときを過ごしていただけるようにと作品等で空間演出をする。 この時の私のメインの展示作品として、二つの言葉「絶望」と「希望」を制作しようと考えていた。 大昔のことのように感じるが、一昨年2017年は、希望の党はじめ、「希望」という言葉をよく目にしたり耳にした気がする。そのことはきっかけだったが、自分が人生に、自分自身に「絶望」していたというところは大きい。 私自身は「希望」というものを持った記憶がなかった。ある時期まで、大真面目に「夢も目標も希望もない」と本気で思っていた。 今晩はこれを食べたいとか、髪を切りたいとか、それも希望なのだろうが、もっと人生の道のりの中で将来に向けて抱く「希望」を持ったことがない。「希望」という言葉に触れるだけでもおかしな気持ちがした。自分が持てるような代物とも思えなかった。キャッチフレーズだったり、PRのコピーであったり、「希望」という言葉があまりに安易に使われ過ぎているように感じていた。自分が持てない分、「希望」という言葉が指し示すものはもっと神聖な、丁寧に取り扱わなくてはならないものなんじゃないかと思っていた。 何しろ、くだんの父との関係の中で、絶望のようなものを知った。18歳くらいの頃だった。父の手の届く領域の内側でちょろちょろしているくらいでさして不自由さを感じなかった自分に、「私はこうしていきたい」という明確な考えが生まれた。父に伝えたが、父の影響下の外に私が出て行くことは全くあり得ないという雰囲気で、全く歯牙にもかからない感じだった。どこの家庭にでもあるごくふつうの、本当は喜ばしい思春期の出来事のはずだったが、主張が強く、勢いも並外れた父に私は全く歯が立たず、そのように希望を抱くことは人としてあるまじき発想で、そんなこと叶えようとするなんて人でなしなのだ、と思い込んだ。 きっと私は基本的に可愛がられて育ってきたのだと思う。周りの人びとから、父は私のことを目に入れても痛くないほど可愛いと言って憚らなかったと聞く。度を越すくらいに自分を可愛がってくれていた父なら、私の希望をわかってくれるはずと漠然と感じていたのではないかと思う。が、そうではなかった。今思えば、私の抱いた考えは一種の希望だった。それを私は父の返答で簡単に手放してしまった。大好きな父がそんなに否定するということは、希望を持つことそのものが良くないことだと判断したのだ。 母はとても明るく、行動的な人だった。だが、40代後半で脳出血を患った。5年ほど後に2度目に起こった発作がいけなかった。溌剌とした母はもう戻ってこなかった。 まだ母が元気な頃、私がまだ幼い頃だったと思う。子どもには底知れない暗い想いを母が抱えていることを少しだけ垣間見た瞬間があった。彼女にも子供には計り知れない世界があるのだと感じた。長じて、父の不倫の告白を聞かされ、それを凪いだような心で受け止め、いつしか母の気持ちを自分の気持ちさながらに抱えるようになっていた。希望を持つだけ無駄だ、どうせ父には対抗しきれない、希望など持たない方が悲しい思いをしなくて済むのだからと自分自身を「生かさぬよう殺さぬよう」適当なところでリミッターをかけたような気がする。 時は流れ、母が病を得た歳、死んだ歳をとっくに追い越して、ありがたくも私は健康でいられている。苦しくてたまらなくて、そこからどうしたら抜け出せるかともがいてきて、それは結局、自分というものの内側を掘り起こし続けるしかないのだと思い、そうしつづけてきた先で、いい意味で諦められたのじゃないかと思う。肩の力が抜けた。実際、肩こりや頭痛が激減した。 殺される寸前というくらいの勢いで医療や通院に抵抗し続け、在宅ではどうすることもできないほど調子を悪くして、緊急入院することになった父。入院中もおかしくなったり、ふつうになったり、驚くほど優しくになったりする入院中の父を見ながら、過去親しんできた父はこういう人、という価値観が崩れてきたということもあるだろう。父という存在に過剰に期待をしていた私。彼も私と同じ人間なのだとようやく気づいたのだった。 母だって、いいところもあれば、悪いところもあるものだろう。明るいだけでなく、悩みもあったろう。母だって、私と同じに、ぐちゃぐちゃな想いを押し込めて、明るい顔を人々に見せていたのだなぁと思えるようになって、自分自身の絶望と希望の向こうに、親ではない、父母に考えを巡らすようになった。 父は、本当は天文学者になりたかったそうだ。家族の事情で医師にさせられたとこぼしていた。医学の研究を続けたかったが、戻って実家の医院を切り盛りしなくてはならなくなった。母と出会う前に好きな女性がいたとも。結婚当時の父母の写真は幸せそうだ。二人とも満たされている感じがする。でも、これからという時に母が倒れた。父と出会う前、母は育ての親であった伯母たちから勧められた縁談があったそうだ。その人と結婚していたら、こんなことになってなかったろうな、失敗したかなと話していたということを亡くなってから人づてでから聞いた。父は、産科医としては出色だったかもしれないが、夫としてはどうだったか。私はあんまりいい娘じゃなかった。病を得た母にも、父にも。寂しがりやの父は、頼りにしていた妻が病に倒れてしまって、あと一人だけの家族である娘は思う通りにならない、なぜこうも家庭に恵まれないのかと苦悩したこともあったろうか。 2017年の特別公開企画のお話しから遠回りをしたが、あの時、「絶望」と「希望」をこそ描きたいと思った。 いくつもの「絶望」の底にまるで張り付いていたかのような、絶望が出きった底に、こんなところにまだあったのね、というような感じの・・、劇的でも奇跡的でも華々しくもなく、ごくごくなんともない感じの・・、片付け物をしていたら、あれま、こんなところにあったのねと見つける失せ物のような、そんな感じで眼の前にあらわれた清々しく明るいもの・・それこそが、実は私が本当に出会いたかった、持ちたかった希望だったような気がする。 18の頃、簡単に希望を叶えられなくて、希望をあれやこれやと持てないままできたことは、きっと私には幸いだったのだ。 もし、父母が人生の最後に明るいものを感じないでしまっていたとしても、父母が私のDNAや心の中でしっかりと生きていて、今まさに一緒にこの清々しく明るいものを感じてくれているのなら、親不孝な自分が、少しでも親孝行のようなことができている感じがする。あたたかい。 <写真/上> 旧石原家住宅に入って、土間から畳の間に上がったあたりから「絶望」が見える。 <写真/下> そして、下の写真が「絶望」の裏側に、背中合わせに掲げた「希望」。
親子、家族について。 · 31日 12月 2018
平成最後の年末年始に、ご訪問ありがとうございます。 前向きに人生を生きておられる方々には役に立たないお話しかもしれない、ということを先にお断りして、ブログを書きはじめたいと思います。 ◇ ◆ ◇ 昨年亡くなった父の仕事を題材にとった映画「玄牝」。私も父と一緒に出なくてはならなくなり、父をなじっているシーンが映画の一部に使われている。...
親子、家族について。 · 21日 10月 2018
今度の催しのテーマ「親子について」。日々「親子について」ということは思い浮かぶ。 或る方がSNSにご病気のお父様とのことを書いておられた。とても興味深く読ませていただいた。 その方は、感情をできる限り交えず、事実のみを書いていく、と最初に記してあり、そのことにとても共感した。...